その朝、何かが違った
「お母さん、今日なんか変だよ」
娘さんがそう感じたのは、朝食のときでした。
80代の女性(以下、Aさんとします)は、数年前に脳出血(のうしゅっけつ=脳の血管が破れて出血する病気)を起こしています。左半身に軽いまひが残っていましたが、家族のサポートを受けながら自宅で暮らしていました。
その朝は、なんとなくいつもと違ったんです。
箸の持ち方がぎこちない。返事が一瞬遅れる。いつもは「おはよう」と言うのに、その朝は黙って座っていた。
「体調悪い?」と聞くと、Aさんは「大丈夫よ」と答えました。でも娘さんの直感は「大丈夫じゃない」と告げていた。
この「大丈夫じゃない」という感覚を、娘さんは信じることにしました。
迷いながらも病院へ
娘さんはAさんを車に乗せ、かかりつけ病院に向かいました。
「119番(救急車)を呼ぶほどじゃないかな」という迷いはあったんです。本人は「大丈夫」と言っている。でも何かが引っかかって、放っておけなかった。
こういう「迷い」、多くの家族が経験するんじゃないかと思います。
病院の受付に着いてすぐ、状況が変わりました。
Aさんが突然、呼びかけへの反応が鈍くなったんです。名前を呼んでも答えが遅い。ぼーっとしている。左手が動かない……これはいつもの後遺症の程度より明らかに悪い。
受付スタッフがすぐに院内の医師を呼び、Aさんはその場で緊急対応となりました。
救急隊が駆けつけたとき
院内から119番通報があり、私たち救急隊が現場へ向かいました。
到着したとき、Aさんの意識(いしき=周りのことがわかっているかどうか)は落ちていました。声をかけると目を開けますが、すぐ閉じてしまう状態です。
バイタル(血圧・脈・体温など体の基本的な数値)を確認すると、血圧(けつあつ)の上の数値が200mmHg(ミリメートルエイチジー)を超えていました。これはかなり高い状態です。
健康な大人の目安は120mmHg前後。200を超えるというのは、脳血管に大きな負担がかかっているサインです。
脳出血の後遺症がある方で、突然これほど血圧が上がる場合は「再出血かもしれない」と考えます。救急隊はすぐに搬送先を選定し、脳卒中(のうそっちゅう=脳の血管が詰まったり破れたりする病気の総称)に対応できる病院へ搬送しました。
脳出血の後遺症って何?
ここで少し説明します。
脳出血とは、脳の中の血管が何らかの原因で破れて、脳の中に血の塊(血腫=けっしゅ)ができてしまう病気です。その血腫が脳を圧迫することで、さまざまな症状が出ます。
出血した場所によって、後遺症の内容は変わります。よくある後遺症には次のものがあります。
- 片側のまひ(顔・腕・脚のどちらか一方が動きにくい)
- 言語障害(言葉が出にくい、ろれつが回らない)
- 飲み込みにくさ(食べ物や水分が気管に入りやすくなる)
- 感覚のにぶさ(触った感覚や温度感覚が鈍くなる)
Aさんの場合は、左半身の軽いまひと、少し言葉がゆっくりになるという後遺症がありました。
大切なのは、「後遺症 = 症状が固定していて変わらない」とは限らない、ということです。
体調不良、感染症(かんせんしょう=ウイルスや細菌による病気)、強いストレス、血圧の急激な変化などをきっかけに、後遺症の症状が悪化したり、再び出血が起きたりすることがあります。
「いつもと違う」を見分けるFASTのサイン
脳卒中の症状を見分けるための有名な覚え方として「FAST(ファスト)」があります。
- F(Face フェイス=顔):顔の片側が歪む、口角が下がる
- A(Arms アームズ=腕):両腕を上げたとき、片方だけ落ちてくる
- S(Speech スピーチ=言葉):言葉が出にくい、ろれつが回らない
- T(Time タイム=時間):症状が出た時刻をメモして、すぐ119番
ただし、後遺症がある方は話が少し違います。
もともと顔のゆがみや腕のまひ、話しにくさがある方だと、「FAST」のサインがあっても「いつものこと」に見えてしまいます。
だから後遺症のある方の家族に意識してほしいのは「いつもより悪くなっていないか?」です。
- いつもより反応が遅い
- いつもより顔のゆがみが強い
- いつもは動く左手が今日は動かない
- なんとなく表情が乏しい
- 食欲がいつもより落ちている
これらが重なったとき、迷わず医療機関に連絡してください。
再出血なのか、体調不良なのか
では、後遺症が一時的に悪化しているだけなのか、再び出血しているのかは、どうやってわかるのでしょうか。
正直に言うと、症状だけでは判断できません。
CT(コンピュータ断層撮影=体の断面をX線で撮影する検査)を撮って初めてわかります。症状が軽くても、CTで大きな出血が見つかることがある一方、ひどく見えても出血していないこともあります。
「たいしたことなさそう」と家で様子を見ることが、最も危険なんです。
Aさんの場合も、病院でCTを撮ったところ、以前の脳出血部位の近くに新たな出血が確認されました。担当医から娘さんへの説明では「午後まで様子を見ていたら、出血がさらに広がっていた可能性がある」とのことでした。
娘さんの「何かおかしい」という感覚が、Aさんの命を守ったんです。
救急現場で家族に助けてほしいこと
救急の現場で一番役に立つのは、患者さんの「普段の様子」を知っている家族からの情報です。
到着したらすぐに、次の4つを教えてください。
- 既往歴(きおうれき):過去にかかった病気や手術。例:「5年前に脳出血。高血圧と糖尿病もあります」
- 飲んでいる薬:薬の袋や「お薬手帳」ごと持ってきてもらえると最高です
- いつから、どう変わったか:「今朝起きたらいつもより反応が遅かった」でも十分な情報
- いつもの状態:「もともと左手は動きにくいです」「話すのはもとから少しゆっくりです」
これがわかると、「今の状態がいつもと比べてどれだけ悪化しているか」を判断できます。これは治療方針を決める上でとても重要なんです。
焦らなくていいです。救急隊が到着したら「これを伝えてください」と聞きます。その質問に答えてもらえれば大丈夫です。
「救急を呼ぶのをためらった」について
後日、娘さんは話してくれました。「最初、救急車を呼ぶのをためらいました」と。
「大げさかな」「たいしたことなかったら恥ずかしい」という気持ちは、誰でも持ちます。救急隊員もそれはわかっています。
でも脳の病気に関しては、迷ったら119番を。
脳への血液が止まると、1分間に約190万個の神経細胞(神経さいぼう=脳を動かす細胞)が死ぬという研究があります。「ちょっと様子を見よう」の1時間が、回復できる可能性を大きく変えてしまいます。
「空振りでよかった」が、一番いい結果です。



