その日の指令は、119番通報ではありませんでした。
病院から、病院へ。
地域の病院から、心臓のカテーテル治療ができる病院まで、患者さんを運ぶ——いわゆる転院搬送です。
傷病者は60代の男性。診断は、急性心筋梗塞の疑い。
処置室で医師から申し送りを受け、ストレッチャーに移し、車内に収容しました。娘さんが付き添われることになり、助手席に座っていただきました。
車が動き出してしばらくして、娘さんが、後ろを振り返って言いました。
「あの……酸素は、つけなくて大丈夫なんですか」
父親の顔には、何もついていませんでした。心電図の電極と、指先のパルスオキシメータと、血圧計のカフだけです。
もっともな質問だと思いました。
そして、この質問に正面から答えることが、今日の記事です。
酸素マスクには、「使う」と「使わない」の両方の判断があります(写真はイメージです)
車内で見ていた数字
車内で継続して見ていたのは、次の数字です。
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 意識 | 清明。会話ができる |
| 呼吸 | 苦しそうな様子はない。横になって話せる |
| SpO2 | 99%(酸素を投与しない状態で) |
| 血圧・脈拍 | モニタで継続監視 |
| 心電図 | 12誘導を記録し、モニタで継続監視 |
このなかで、娘さんの質問に直接かかわるのが、SpO2 99%という数字です。
SpO2は、血液のなかでどれくらい酸素が運ばれているかを、指先の光で推定する値です。この数字が酸素を吸わせていない状態で99%だった。
つまり、この方の血液は、部屋の空気だけで、すでにほぼ満杯まで酸素を積んでいたということです。
ここに酸素マスクを足したら、どうなるか。
ほとんど、何も変わりません。
99%の器に、さらに注いでも、あふれるだけです。
これは私の感覚論ではありません。日本の学会のガイドラインが、はっきりそう書いています。
ガイドラインは、2013年と2018年で逆になっている
ここが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。
「心筋梗塞といえば酸素マスク」は、かつては正しかったのです。そして今は、正しくありません。
日本循環器学会の『急性冠症候群ガイドライン(2018年改訂版)』は、「初期治療」の章の冒頭を、こう書き出しています。
「ST上昇型急性心筋梗塞の診療に関するガイドライン(2013年改訂版)」では、すべてのSTEMI患者に対する来院後6時間の酸素投与は、クラスIIa、エビデンスレベルCで推奨されていた。しかし最近の報告では、低酸素血症のない患者への酸素投与の有効性は否定されている。
(日本循環器学会『急性冠症候群ガイドライン(2018年改訂版)』第3章 初期診断,初期治療 2.1 酸素)
STEMIというのは、心筋梗塞のなかでも心電図でST上昇という変化が出るタイプのことです。2013年版では「全員に、来院後6時間、酸素を投与する」が推奨だった。それが2018年版で、覆されました。
そして続きが、こうです。
低酸素血症、心不全やショックの徴候がある場合には酸素投与を開始すべきであるが、ルーチンの酸素投与は推奨されない。酸素投与の必要性を判断するために、来院時ただちに酸素飽和度をモニタリングする。
「酸素をやめろ」ではありません。「測ってから決めろ」です。
表14——推奨が2行で書かれている
同じガイドラインの表14「初期治療における酸素投与の推奨とエビデンスレベル」は、たった2行です。原文どおりに並べます。
| 推奨 | 推奨クラス | エビデンスレベル |
|---|---|---|
| 低酸素血症(酸素飽和度90%未満)または心不全徴候のある患者に対して酸素を投与する | I | C |
| 酸素飽和度90%以上の患者に対してルーチンの酸素投与は推奨されない | III(No benefit) | A |
読み方を補います。
- クラスIは「行うべき」。クラスIII(No benefit)は「行っても利益がない」。
- エビデンスレベルAは、複数のランダム化比較試験などに裏づけられた、いちばん強い根拠のことです。
つまり——
「90%未満なら投与する」のほうが根拠レベルC(比較的弱い)で、「90%以上にはルーチン投与しない」のほうが根拠レベルA(いちばん強い)なのです。
現場で「つけない」と判断したほうが、実は根拠が強い。これは、多くの方の直感と逆だと思います。
酸素をつけるかどうかを決めるのは、この数字です(写真はイメージです)
「病院に着いてから」ではなく「救急車のなかから」の話
ここまでは、病院での初期治療の話でした。
では、救急車のなかは?
こちらは、日本蘇生協議会(JRC)の『JRC蘇生ガイドライン2020』第6章「急性冠症候群」に、「ACSへの病院前の処置」という節が、そのまま置かれています。病院前——つまり、救急隊が接触してから病院に着くまでの話です。
そこに立てられている問い(CQ)は、こうです。
正常酸素飽和度を示すAMI患者に酸素は必要か?
そして、推奨と提案。
低酸素血症のないAMIまたはその疑い患者に対して、ルーチンの酸素投与をしないことを提案する(弱い推奨、エビデンスの確実性:非常に低い、Grade 2D)。
(日本蘇生協議会『JRC蘇生ガイドライン2020』第6章 急性冠症候群「4 ACSへの病院前の処置」)
「AMIまたはその疑い」——ここが大事です。病院前では診断が確定していないことが普通です。今回の事案も「急性心筋梗塞の疑い」でした。ガイドラインは、疑いの段階も含めて書いています。
注釈のほうが、実は重要
この推奨には、4つの注釈がついています。そのうち2つを、そのまま引きます。
*1:(略)なお、低酸素血症はPaO2≦60 mmHgのことであり、SpO2では90%以下が該当する。
*3:SpO2が90%以上であっても、頻呼吸や起坐呼吸、心原性ショックには酸素投与が必要。
つまり、「SpO2が90%以上だから酸素はいらない」と機械的に決めているわけではありません。
- 呼吸が速い
- 横になれず、起き上がっていないと苦しい(起坐呼吸)
- ショックの状態にある
このどれかがあれば、数字が90%以上でも酸素を投与します。
今回の男性は、会話ができ、横になって話せて、呼吸が速くもありませんでした。だから、投与しなかった。数字だけで決めたのではなく、数字と様子の両方を見て決めています。
そして、上限の話
JRCは同じ項目の「患者にとっての価値とJRCの見解」で、こう書いています。
SpO2が90%以上であっても、頻呼吸や起坐呼吸、心原性ショックにはSpO2が100%にならないように、酸素流量を調整し酸素投与が必要である。なお、酸素投与量の上限について今回は検討できていない。
「SpO2が100%にならないように、酸素流量を調整し」。
酸素が必要な場合ですら、100%を目指さないと書いてあります。
「酸素は多ければ多いほどよい」——この考え方は、少なくとも急性冠症候群では、国内のガイドラインが採っていません。
ただし、「酸素は毒だ」という話ではありません
ここは、慎重に書きます。
インターネット上では、「酸素の与えすぎが心筋を傷める」といった説明を見かけることがあります。私も現場に出はじめたころ、先輩からそれに近い言い方で教わった記憶があります。
ですが、いま日本のガイドラインに書かれているのは、そうではありません。
JRC蘇生ガイドライン2020は、この論点について、こう記録しています。
CoSTR 2015では経皮的酸素飽和度93%以上(SpO2≧93%)のAMI患者に対する高容量酸素投与は有害としたが、その後のエビデンスに有害報告はなくACS作業部会ではこの話題を優先的にレビューした。
「その後のエビデンスに有害報告はなく」。
2015年の国際コンセンサスは「有害」としていた。その後の研究では、有害だという報告は出なかった——そう書かれています。
実際、同ガイドラインが集計したランダム化比較試験のメタアナリシスでは、院内死亡・6か月〜1年後の死亡・入院中の再梗塞・心原性ショック・心停止・心臓MRIで測った梗塞サイズのすべてについて、酸素を投与しない群と、ルーチンに投与する群は「同等であった」とされています。
つまり、正確に言うとこうです。
酸素をつけないのは「つけると悪くなるから」ではありません。「つけてもつけなくても結果が変わらないから」です。
「効かないから、やらない」。医療の判断としては、これで十分な理由になります。ですが、「毒だからやらない」とは意味がまったく違うので、この記事では、そこを混ぜないでおきます。
「効かないからやらない」と「毒だからやらない」は、別の話です(写真はイメージです)
88%の日もあれば、99%の日もあります。分かれ目は数字のほうです(写真はイメージです)
ご家族に持ち帰ってほしい、たった一行
ここまでを、ご家族向けに1行にすると、こうなります。
酸素マスクがついていないことは、「軽い」の証拠でも、「手を抜かれた」の証拠でもありません。
そして、逆向きも同じです。
酸素マスクがついていることも、それだけでは重症度を意味しません。
このブログでは、酸素を投与した事案も書いてきました。
- 1週間食べられず、熱もなかったのに、SpO2が88%だった80代女性の事案は、「1週間、食べられていない——熱はなかった。けれど酸素は88%だった」に書きました。この方には酸素を投与しました。88%は、90%未満だからです。
- 8月に毛布を三枚かけても震えていた80代男性の事案(「毛布を三枚かけても『寒い』と震えていた80代の父」)でも、SpO2 88%で酸素を投与しています。
同じ救急車の、同じ機材で、つける日とつけない日がある。その分かれ目にあるのが、指先の数字と、呼吸の様子です。
「あの人にはつけていたのに、うちの父にはつけてくれなかった」——もしそう感じられたら、それはたぶん、数字が違ったのだと思ってください。
では、その車内で私たちは何をしていたのか
酸素を投与しなかったからといって、何もしていなかったわけではありません。
急性心筋梗塞で運んでいるとき、救急隊がいちばん運んでいるのは、酸素ではなく「時間」です。
12誘導心電図
JRC蘇生ガイドライン2020は、病院前で12誘導心電図を記録することについて、「大規模な症例数での一致した院内死亡あるいは30日後死亡の改善と、救急外来受診から再灌流までの時間短縮をより重視している」と書いています。
心電図の波形が先に病院に届いていれば、病院はカテーテル室の準備を先に始められます。私たちが記録して伝えるのは、そのためです。
酸素の代わりに先に届けているのは、この波形です(写真はイメージです)
DIDO時間——「30分以内」という目標
今回のような、カテーテル治療(プライマリーPCI)ができない病院から、できる病院へ運ぶケースについては、JRCに専用の項目があります。
STEMI患者に対して、DIDO時間を30分以内にすることを提案する(弱い推奨、エビデンスの確実性:非常に低い、Grade 2D)。
DIDO時間(Door-in Door-out Time)とは、最初の病院に入ってから、その病院を出るまでの時間のことです。
同じ項目の解説には、目標の全体像も書かれています。
- First door(カテーテル治療ができない病院を受診した時刻)からballoon(血管を広げる処置)までを120分以内にする
- カテーテル治療ができる病院でのDoor-to-balloon時間を90分以内にする
- そのために、最初の病院でのDIDO時間を30分以内にする
つまり、転院搬送の救急車は、この120分という時計のなかを走っています。
ただし、JRC自身がすぐ後ろに条件をつけています。「わが国、特に都市部においてはSTEMIに対してプライマリーPCIを施行できる施設が近距離内に多数ある状況であり、DIDO時間の転帰に関する影響は欧米とは異なる可能性に留意する必要がある」。この30分は、日本で検証された数字ではありません。そこは正直に書いておきます。
薬は、救急車では使えません
「では、薬は?」と思われるかもしれません。
心筋梗塞の初期治療では、アスピリンやニトログリセリンが使われます。JRCも、病院前でのアスピリン投与について死亡を減らす可能性を示しています。
しかし、同じガイドラインに、こう書かれています。
わが国ではSTEMI患者への救急隊によるアスピリン投与は法的な課題となっている。
わが国ではACS患者への救急隊(救急救命士)によるニトログリセリン投与は法的な課題となっている。
日本の救急救命士は、心筋梗塞を疑う傷病者に、アスピリンもニトログリセリンも投与できません。(すでに医師から処方されている方が、ご自分でニトログリセリンを使うことは、これとは別の話です。)
だからこそ、運ぶ時間そのものが、私たちの持っているいちばん大きな道具になります。
運んでいるのは酸素ではなく、時間です(写真はイメージです)
病院から病院へ。救急車が走る理由は、119番通報だけではありません(写真はイメージです)
聞かれたことに答えるだけで十分です(写真はイメージです)
覚えて伝えなくて大丈夫です。手帳は、そのまま持ってきてください(写真はイメージです)
疑問はその場で聞いてください。走っている間、説明する時間だけはあります(写真はイメージです)

