ある夏の夕方、住宅から119番通報が入りました。
通報内容は「高齢の母が息を荒くしている」。到着すると、80代の女性が椅子に腰かけ、肩を上下させて速い呼吸をしていました。意識ははっきりしていて、こちらの問いかけにも答えられます。ただ、話しはじめるとまた呼吸が速くなる。手がしびれる、とも言いました。
そばにいたご家族が、先に説明してくださいました。
「またいつもの過呼吸なんです。前にも何度かあって、病院で『過換気ですね』と言われたので」
そしてご本人も、息の合間に、はっきりこう言いました。
「すみません。いつものやつなので、大丈夫です」
「いつものやつ」と言われた時点で、私たちの仕事は「では確かめさせてください」に変わります(写真はイメージです)
この記事は、その「いつものやつ」という言葉について書きます。
過換気症候群(かかんきしょうこうぐん)は、実在する病気です。苦しさも本物です。この記事は「過換気なんてたいしたことない」と言うためのものでも、逆に「過換気は怖い病気だ」と煽るためのものでもありません。
書きたいのはひとつだけです。「呼吸が速い」という状態に、その場で名前をつけてしまわないでほしい、ということです。
主な出典は、日本呼吸器学会の市民向けページ(呼吸器の病気 I-04「過換気症候群」/呼吸器Q&A Q13)、国立長寿医療研究センターの「健康長寿ナビ」、総務省消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』(令和7年12月発行)、『救急蘇生法の指針2025(市民用)』です。どれも誰でも読める公開資料です。
先に、3つだけ
長い記事になるので、先に結論を置きます。
- 「過換気症候群」は、他に理由が見つからないときにつく名前です。日本呼吸器学会は「まずは、なぜ呼吸が速くなっているかを見極める必要があります」と書いています。見極めるのは、病院の検査です。
- 紙袋(ペーパーバッグ法)は、もう行いません。同じ学会が「現在では行わないので注意してください」と明記しています。
- 「前と同じ症状だから、前と同じ原因」とは限りません。とくに高齢の方では、体の状態と、本人が感じる苦しさが、ずれることがあります。
以下、ひとつずつ、原文を見ていきます。
①「過換気症候群」は、“他が見つからなかった”ときの名前です
日本呼吸器学会の呼吸器Q&Aには、まさにこの記事のタイトルのような項目があります。「Q13. 呼吸が速くなります。過換気だと言われました。」です。
そこに、過換気症候群がどういうものかが、こう書かれています。
肺や心臓の検査を行っても異常が認められず、何も認めないにもかかわらず発作的に息苦しくなって呼吸が速くなるような状態をきたすことがあります。このことを過換気と呼びます。
読み飛ばしてしまいそうな一文ですが、ここが決定的です。
「肺や心臓の検査を行っても異常が認められず」——つまり、検査をして、他の原因が見つからなかったという前提が、この病名の中に組み込まれています。
だから同じページは、対応の項でこう書きます。
まずは、なぜ呼吸が速くなっているかを見極める必要があります。そのためには、病院や診療所で、詳しい問診(同じようなことが以前にあったか、精神的なストレスがあるかなどの確認)や検査(胸のレントゲン、心電図や採血、動脈血ガス分析(動脈から血液を採取し、酸素と二酸化炭素の量を確認する))を行います。
胸のレントゲン、心電図、採血、動脈血ガス分析。これらは全部、病院でしかできないことです。
救急隊は現場でいろいろなことを測りますが、レントゲンも心電図の詳しい判読も採血も、そこではできません。ご家族の目の前でもできません。
つまり——
「これは過換気です」という判断は、原理的に、玄関先や居間ではできないのです。
私たちが「では病院で診てもらいましょう」と言うのは、疑っているからではありません。その名前をつけられる場所が、そこしかないからです。
なお、同じ学会の疾患ページ(I-04)では、過換気症候群で出る症状としてこう挙げられています。
息をしにくい、息苦しい(呼吸困難)、呼吸がはやい、胸が痛い、めまいや動悸などがあります。テタニー(tetany)と呼ばれる手足のしびれや筋肉がけいれんしたり、収縮して固まる(硬直)症状がでます。手をすぼめたような形になり"助産師の手"と呼ばれます。
「手がしびれる」「指がこわばって開かない」は、たしかに過換気症候群でよく知られた症状です。この事案のご本人が言った「手がしびれる」も、それに当てはまります。
けれど、当てはまることと、それだけであることは違います。
手足のしびれは、学会が挙げる過換気症候群の症状のひとつです。ただし「しびれたから過換気」ではありません(写真はイメージです)
② 呼吸が速くなる理由は、不安だけではありません
ここが、この記事でいちばんお伝えしたい部分です。
国立長寿医療研究センター——高齢者医療の国立センターです——の一般向けページ「健康長寿ナビ」に、「あなたの息切れ(呼吸困難)の原因は?」という項目があります。
冒頭に、こうあります。
原因としては、肺炎や気管支炎、心不全あるいは精神的なストレスなど、実に様々な病気が原因となっている場合があります。
そしてこのページは、呼吸困難を起こす病気を順番に挙げていきます。気管支喘息、COPD、市中肺炎、肺線維症・間質性肺炎、肺癌、胸水貯留。続いて心不全、狭心症または冠動脈疾患、貧血または慢性出血、神経筋疾患。
過換気症候群は、その最後に置かれています。
過換気症候群 精神神経系疾患のひとつと考えられていますが、不安に関連した呼吸困難および頻呼吸であり、しばしば全身症状を伴います。若年女性にもっとも多く認められます。
ここで、「若年女性にもっとも多く認められます」と、高齢者専門の国立センターが書いていることは、覚えておいてよいと思います。
ただし——ここは正確に書きます。「高齢者に過換気症候群は起きない」「高齢者では稀だ」とは、私が確認できた範囲の公的資料には書かれていませんでした。書けるのは「若年女性にもっとも多い」までです。高齢の方に過換気症候群が起こらない、という意味ではありません。
それでも、この並び順には意味があります。息が速いという同じ見た目の裏に、これだけ多くの原因が並んでいるということです。
同じページには、緊急性についてもこう書かれています。
緊急性を伴った初期治療が必要な基礎疾患や病態には、喉頭浮腫(気管の入り口の部位が炎症、外傷、アレルギー反応などによって腫れ空気の流入を妨げる状態)、気管支喘息発作、肺血栓塞栓症や自然気胸などがあります。
MSDマニュアル家庭版の「息切れ」の項にも、同じ趣旨の記述があります。
通常、運動をしているときや、標高が高い所では呼吸が速く深くなりますが、それで不快になることはまずありません。肺の病気であれ他の病気であれ、多くの病気では、安静時でも呼吸数が増加します。例えば、熱があると、一般に呼吸が速くなります。
(代謝性アシドーシスと呼ばれます)と、息切れを感じ、速くあえぐようになります。代謝性アシドーシスは、重度の腎不全、糖尿病の突然の悪化、特定の薬剤や毒物(メタノールやエチレングリコールなど)の摂取などによって起こります。
さらに、日本救急医学会の医学用語解説集「アルカローシス」には、こうあります。
低酸素状態は末梢の化学受容体を刺激して呼吸性アルカローシスを引きおこすことがある。
やや専門的な言い方ですが、意味はこうです。体の酸素が足りていないときにも、体は呼吸を速くする。
つまり、「呼吸が速い」は、不安のサインであると同時に、体が何かを埋め合わせようとしているサインでもあるわけです。
熱があっても速くなる。貧血でも速くなる。心不全でも速くなる。腎臓や糖尿病の急な悪化でも速くなる。酸素が足りなくても速くなる。そして、不安でも速くなる。
同じ「速い呼吸」を見て、その場で最後のひとつだと決める理由は、どこにもありません。
落ち着いてから振り返ると「たいしたことなかった」に見えます。落ち着く前は、まだ何もわかっていません(写真はイメージです)
③ 紙袋は、もう使いません——これは学会がはっきり書いています
ここは、この記事でもっとも実用的で、もっとも根拠のはっきりした部分です。
「過呼吸になったら紙袋を口に当てて、自分の吐いた息を吸わせる」——ペーパーバッグ法と呼ばれる方法を、ご存じの方は多いと思います。ドラマや漫画でもよく出てきます。
これは、現在は行いません。
日本呼吸器学会の呼吸器Q&A Q13は、こう書いています。
以前は、ペーパーバック法(紙袋などを使用して自分が呼気した空気を再度呼吸すること)が応急処置としてされていました。しかし、現在では行わないので注意してください。
同じ学会の疾患ページ(I-04・2025年9月)は、理由まで書いています。
紙袋を口にあてていったん吐いた息を再度吸わせること(ペーパーバック法)は、血液中の炭酸ガス濃度を上昇させる効果があり頻用されていましたが、低酸素血症の危険があるため近年は推奨されていません。少なくとも酸素投与を併用するなど、慎重なモニタリングが必要となります。
MSDマニュアル家庭版の「アルカローシス」の項も、同じ結論です。
ときに、紙袋を口に被せて呼吸することで、ゆっくりと呼吸しようと試みることがありますが、吐いた二酸化炭素をもう一度吸うことになるため、血液中の二酸化炭素濃度が上昇します。しかし、これは他の問題(例えば、取り込まれる酸素の量が少なくなるために心臓や肺の問題を悪化させる)につながる可能性があるため、推奨されません。
3つとも言っていることは同じです。紙袋は、二酸化炭素を戻す代わりに、酸素を減らす。
そして、①で書いたことを思い出してください。その人が本当に過換気症候群なのかは、その場ではわからないのです。
もし、速い呼吸の原因が肺炎や心不全や貧血のほうだったら——酸素が足りなくて呼吸を速くしていた人から、さらに酸素を取り上げることになります。
「よかれと思って」がいちばん危ないのは、ここです。
かつては応急手当の定番でした。いまは「行わないので注意してください」と書かれています(写真はイメージです)
では、代わりに何をするか
日本呼吸器学会 I-04 は、こう書いています。
意識的に呼吸を遅くする、もしくは呼吸を止めることで症状は改善します。しかし、不安が強い場合には容易ではないため、まずはできるだけ安心させゆっくり呼吸するよう促すことに専念します。
Q13 のほうは、もう少し具体的です。
比較的軽い場合は、ゆっくり話しかけて安心させ、適切な呼吸法を誘導します。ゆっくりと小さな呼吸を行い、可能であれば呼気を5秒以上かけて行うように指示します。
家族にできるのは、ゆっくり話しかけて、安心させて、息を吐くほうをゆっくりにしてもらうこと。それだけです。道具はいりません。
そして、これは「過換気だと決めつけて対応する」のとは違います。原因が何であれ、落ち着いた声でそばにいることは、害になりません。害になるのは、紙袋のような「特定の病気だと決めつけた処置」のほうです。
④ 「呼吸が速い」に、数字の目安はあるのか
あります。ただし、使い方に注意が必要な数字です。
日本呼吸器学会 Q13 の冒頭です。
呼吸は、無意識な状況で規則正しく1分間に約12から20回行われています。呼吸が速いとは、1分間に25回以上行われる状況で、「頻呼吸」と言います。「過呼吸」とは、呼吸回数に変化はないが、呼吸の深さが増加することを言います(通常、呼吸回数も多くなると考えられています)。
- ふだんの呼吸:おおむね1分間に12〜20回
- 1分間に25回以上:「頻呼吸」
ここで、大事な注意を3つ書きます。
注意1:これは高齢者専用の基準ではありません。このページは年齢を限定していません。「高齢者の正常な呼吸数はこれです」と読み替えることはできません。
注意2:これは119番を呼ぶかどうかの基準ではありません。私が確認した限り、消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』(令和7年12月発行)全9ページに、「呼吸が速い」「過呼吸」「過換気」という言葉は一度も出てきません。国は、呼吸を回数で線引きしていないのです。
注意3:数えるより先に、見てください。回数を数えることに集中して、顔色や、話せるかどうかや、いつもと違う様子を見落としたら、本末転倒です。
では、なぜこの数字を紹介したのか。あとから医療機関で聞かれたときに答えられるからです。
「速かったです」より、「1分間に30回くらいでした」のほうが、はるかに役に立ちます。ストップウォッチはいりません。時計の秒針を見ながら、15秒間に何回、胸やお腹が上下したかを数えて、4倍する。それで十分です。
15秒数えて4倍する。数字が残ると、あとで医師に渡せる情報になります(写真はイメージです)
⑤ 高齢の方では、「苦しさ」と「体の状態」がずれることがあります
この記事を80代の事案から書いている理由が、ここです。
先ほどの国立長寿医療研究センターのページに、こんな一文があります。
また、呼吸困難を自覚するけれど、呼吸不全にはなっていないということが多くあります。反対に、呼吸不全になっているけれど、呼吸困難を自覚しないこともしばしばあります。
同じページは、呼吸不全をこう定義しています。
動脈血中の酸素分圧(酸素の含まれている度合いを圧で示す)が60mmHg以下になることを呼吸不全と定義しています。指先にクリップをあてて測定するのは、動脈血酸素飽和度と呼ばれる測定値ですので、これとは異なったものです。
(ちなみにこの一文は、指先で測るSpO2と、動脈血の酸素分圧は別物だという注意でもあります。家庭のパルスオキシメーターの数字は、あくまで目安です。)
つまり、苦しがっている=重い、苦しがっていない=軽い、という対応関係は、成り立たないということです。
そして、消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』の高齢者のページには、冒頭にこの但し書きがあります。
◎その他、いつもと違う場合、様子がおかしい場合◎ 高齢者は自覚症状が出にくい場合もありますので注意しましょう。
この一文は、「おとな」のページにはありません。(※差の理由をリーフレット自身は説明していないので、ここでは「高齢者のページにだけ書かれている」という事実だけを記します。)
「いつものやつなので、大丈夫です」——冒頭のご本人の言葉に戻ります。
この言葉は、ご本人が感じている苦しさの申告としては、まったく正しいのです。嘘でも、我慢でもありません。
ただ、それは体の状態の申告ではない。国立長寿医療研究センターが書いているとおり、その2つはずれることがあります。
指先の数字も、あくまで目安です。数字だけで安心もしないし、数字だけで不安にもならない(写真はイメージです)
⑥ 「繰り返している」は、安心材料にはなりません
ここは、公的資料に直接そう書かれた一文が見つからなかった部分です。なので、断定はしません。私が確認した範囲では、消防庁のリーフレットにも『救急蘇生法の指針2025(市民用)』にも、「以前と同じ症状だから大丈夫」を否定する記述はありませんでした。
そのうえで、事実として言えることを2つだけ並べます。
ひとつ。②で見たとおり、呼吸が速くなる原因は非常に多い。だとすれば、1回目と2回目と3回目が同じ原因である保証は、どこにもありません。「前回は過換気だった」は「今回も過換気だ」の理由にはなりません。
ふたつ。⑤で見たとおり、高齢の方では体の状態と自覚がずれることがある。「前回と同じくらいの苦しさだ」という感覚自体が、体の状態を反映していない可能性があります。
もうひとつ、参考になる記述があります。国立精神・神経医療研究センターの「こころの情報サイト」の不安症のページは、対処方法の冒頭にこう書いています。
動悸や呼吸困難があるときには、まずは内科の診察を受けてください。時には甲状腺機能亢進症、不整脈、貧血によって不安が生じることもあります。
心の側から書かれたページが、「まず内科へ」と書いている。これは示唆的だと思います。不安が原因だと考えられる場合でも、順番としては体の検査が先にくる、ということです。
同じページには、こうもあります。
恐怖や不安は現実の出来事や、身体疾患、特殊な物質の使用、治療薬、環境刺激などによって生じることがありますが、そのような理由のある恐怖、不安は含めません。
「前に処方された薬」は、今回の原因を保証してくれません(写真はイメージです)
「いつもの発作かもしれません」と付け加えて構いません。それも情報のひとつです(写真はイメージです)
その場で辞退することと、受診しないことは別です(写真はイメージです)
何ごともなく、いつもの夜に戻れること。そのための備えです(写真はイメージです)

